takuyo日記

小説に毒されています

恋愛というものから自分ほど縁遠い人間はいない気がするのに、だからこそ恋愛ができる、みたいな矛盾の中にいつもいる。生きることに向いていないからこそ生きているし、幸福という言葉に居心地の悪さを覚えるからこそ、幸福がどこかにある気がしている。それはおそらく、他人のつらさを代わってあげられないという今のこの感覚と地続きのものだろう。私は私でしかいられない。お前らしくいろだとか言われるまでもなく。世界は私の中に書き込まれているのか。世界のすべては私でしかないのか。あなたのつらさやあなたの幸福は、すべて私でしかないのか。おそらく半分は正解で、半分は間違っている。あなたのつらさは私ではない。だがあなたのつらさが、あなたとして私の中にやってくるとき、私は変われる。どこか遠くて近い場所にむけて、開かれるのだ。氷が溶けるみたいに。そして強い酒の味を少しだけ、やわらかくするみたいに。

 

 

トライアローグとトライ犬

トライアローグ展でベーコンをみた。もちろんベーコン以外もみたけどベーコンの印象が強すぎて、ベーコンをみた、という感じだった。

一緒にいた人は少し調子が悪くて、疲れてそうで心配だったけど、ちゃんと笑ったりおいしいものを食べたりできたのでよかった。

ベーコンは他の絵と違って、目に入れたときの反応状態が別のものに近い。みたときに「絵だな」とあまり思わず、小さい変な生き物(『ファンタスティックビースト』に出てくるみたいな)が慌てて人間の姿に変身する、まさにその瞬間を目撃してしまったような感じがする。事件ぽさ。すでに起こっていたなにかにたまたま遭遇しているという感じ。みるというより、巻き込まれている。

文学に近いというのは勘違いかもしれないが、“読むべきもの”という感じはする。なにかを身体が読もうとするのがわかるし、みたときにすでに読んでいる。それは絵の「中」にはなく、かといって俺自身の心的な動きに還元されるようなものでもないもの。いきものの痕跡。ひとの一部な感じ。床に落ちた靴下だとか、食べ残しだとか、触れていた手が離れた後に残る感触だとか、そういうもの。あるいは顔。表情、とかに分類できない動き。なにかの痕跡でありながら、それ自体つねに新しいもの。

外には三匹の犬がいて、バトっていた。というかバトりつつあった。俺らがみたときにはもう敵対していたのか敵対しつつある様を俺らがみていたのか、もう忘れた。一対二だった。一の方はたしか茶色っぽい小型犬で、二の方はふたごの白いモコモコ犬だった。あの顔。ボンボンみたいな頭がふたつ目一杯おなじ角度に傾いて、リードを引っ張って徐々に徐々に小型犬の方に接近していた。小さな黒い目をかっ開きながら、「あ? こっちふたりやぞ? あ?」みたいな顔だった。あの、顔。俺らは手をつなぎながら、その前線を歩いていった。あいつら、あはは、とか声を撒き散らしながら。そのとき俺はたぶんいろいろと忘れていて、ふと隣をみた。あの顔。

韓国のラブホ

この前あるひとと電話していて、おじいちゃんのことを思い出した。おじいちゃんは少し前に死んだけど、それよりももっと前に一緒に韓国に行った。二人きりで。おじいちゃんはその時点で確かもう90近かった気がするけど体がやたら大きくて、ポケットのいっぱいついたオーバーコートのどこに切符をしまったのかすぐに忘れるので大変だった。今思えば、俺が預かっとくよ、ぐらい言ってもよかったのだが、俺はそういうことにはかなりとろくて、っていうか、そういう状況に応じた振る舞いみたいなものがすごく窮屈で嫌いなので、いまはこんな感じになっている(どんな感じだ)。

おじいちゃんはもうろくじじいのくせに全部おれにまかせろと言って飛行機もなにもかも一人で手配してしまったのだけど、二日目だか三日目だかのホテルは予約してなくて、大丈夫だ大丈夫だなんて言われるから仕方なくついて行ったら普通にラブホテルだった。韓国の。国道沿いの。ベッドがうっすらとピンクがかっていて、おじいちゃんはこれ使うから、とかなんとか言いながら引っ張り出してきた敷布団も細かい花柄だったし、おまけにバスルームに敷かれたスポンジ状のマットもショッキングピンクでほんとにまじで死のうかと思っていた。翌朝、近くにうまい焼肉屋があって、一人で起きて行ったらおばさんが笑顔で迎えてくれて、白いご飯は「パッ」っていうらしいこととかを教えてくれたのでそれはよかった。

おじいちゃんは一昨年、コロナが話題になるかならないかぐらいの時期に死んだ。最後の方は完璧に認知症で、母親と決裂して吉祥寺で一人暮らししてた俺を心配してんだかなんだかほぼ毎日のように鬼電してきてたけど、母親との因縁におじいちゃんは無関係とは言えなくてその老人だからまぁ許されますみたいな、そういうノリがなんかうざったかったので鬼のように無視していた。死んだときはしばらく後悔したけど、絶対に後悔なんかしてやるかという気持ちもあった。いよいよだめそうだと知らされて真夜中の病室に行ったとき、窓の外の駐車場がけぶっていて、海みたいだと思った。発券機の緑色のランプと、人工呼吸器の音。それらをみょうによく覚えている。