takuyo日記

小説に毒されています

8/21

今日は酒を飲みセックスばかりしていた。正確には、朝起きて一番にセックスをして、それから気づいたら午後になっていて酒を飲んで、セックスをして、寝て起きてセックスをした。もう今日は勃たないとわかったところでセックスはやめてセックスの話をして、そのうち向こうが寝て、今はひとり酒を飲んでいる。スーパーで買ったキンミヤを自家製のほうじ茶で割った薄茶の小汚い液体。金は二、三年前よりも確実にあるが、どうしても貧乏感が抜けない。とはいえ、ほとんど向こうの稼いできた金である。

セックスをしまくった日はべつに人生で初めてではないけど、この人と同棲しはじめてからは初めてかもしれない。最近ハマってきた感がある。私と向こうの相性が。最初はよくなかった。向こうも気にしていた。デカすぎる私のチンコ、小さくて可愛い向こうの全存在。罪悪感ではないが、なんですかね、合わないデカいのと小さいのがあったらデカいほうが悪者で醜いと感じるシステムを人間心理とか呼ぶわけだろう。しかしそういう不均衡が溶解して至上の時へと雪崩れ込んでの今日である。気持ちいいだけが溢れ痛いが消え去った。こんなこと人生には滅多にない。良い相手とのセックスくらいのもんで、それ以外はほぼ痛い。

無論そこに至るまでには様々な積み重ねがあった。いろんな気遣いの言葉があり、正直になるには勇気も必要だった。勇気を相手に出させるには繊細さとちょっとのユーモアも欠かせず、それらは二人が出会う前にそれぞれで拾い集めてきたものだ。そういった互いの大切な一面に触れられたことがセックスそのものより尊い、ということすらいまは言える。賢者タイムである。窓にぶら下げた風鈴の音も、数時間前よりも澄んで聞こえる。

小説は相変わらず進んでいない。そこにもセックスが出てくるが、ただヤってきもちぃハイ終わりというわけにはいかず、あれこれ薄暗いものを刻み込んで「作品」にしなければならない。そんなもんただの思い込みだろと現代作家は言うだろう。しかし私の場合それでは済まない。書くことは私にとって、傷の確認のようなものになっている。傷をアイデンティティにしているわけではない。ただ傷は存在し、それで私が埋め尽くされるわけではないのだが、しかしその傷を開いて生皮を裏返し異形のものにならなければという思いに駆られることがある。その思いをセックスは忘れさせてくれる。だが、セックスについて「書く」とき、その思いに全身を乗っ取られた自分がいる。その矛盾というかねじれは、かなり鬱陶しい。酒を飲んでセックスして多少のお金があればオッケー、みたいなことで人生が片づけばいいのにと思うが、そうはならない。セックスになんらかの効用があるとしても、そう長くは続かない。こんなことを考えるのは一人で起きているからだろうか。就寝を別離に近づけて考えることは、哲学的には凡庸だろうか。

扇風機が回っている。家と駅の間にリサイクルショップがあって、そこのタダコーナーから彼女が拾ってきた小型の錆びた扇風機。明日朝起きて一番のキスをするまで、愛らしい回転をこいつは続けるだろう。このように、生活は非常に充実している。だが、どんなに愉快な飲み会の帰り道でも靴の下のアスファルトは硬くざらついて冷えているように、変わらない「底」みたいなものが私の中にある。文学はべつに戦いではない、と思う。ただそこにそれがあるということを、ずっと言っているに過ぎない。